会社概要
▼本社 |
社名 | 有限会社 ニュー増田 | |
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所在地 | 〒348-0058 埼玉県羽生市中央 1-4-32 |
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電話番号 | 048-561-0156 | |
FAX番号 | 048-561-0135 | |
メールでのご連絡はこちら | ||
代表取締役 | 増田 一明 |
会社沿革(経歴) | 大正10年6月創業 | 初代社長、増田卯三郎 足袋製造業(鶴亀印本舗)を創業 |
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昭和49年 | 二代目社長、増田常蔵 (有)増田常蔵商店を継承 学生服・作業服を製造 |
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昭和61年 | 三代目現社長、増田一明 (有)ニュー増田に法人を改組 鼓笛衣裳、吹奏楽部衣装、制服等、製造販売 |
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創業100年 現在に至る(資本金800万円) |
明治末期の足袋製造風景
創業時の足袋製造風景(昭和23年当時)
日本の家庭に入った第一号ミシンは、ジョン万次郎の母親へのお土産だった。
そして日本は近代化への道へと進みます。
シンガーミシン社の宣伝用絵はがき
(1920年代初頭)稽古初め
シンガー社の販売戦略がよく現された宣伝文
(提供 Paul McAlpine)
ヴィクトリア朝の女性とくらし ワーキング・クラスの人びと
足袋から「軍服の町」へ
2018年8月12日 読売新聞に掲載
江戸時代からの足袋の生産地である行田は、戦争末期には軍服づくりを強いられ、足袋づくりは配給用に限られていました。
(クリックして拡大画像をご覧下さい)
昭和初期は200社以上の足袋商店が林立
(クリックして拡大画像をご覧下さい)
足袋から「軍服の町」へ、女学校も軍需工場に
日本遺産登録
2017年(平成29年)4月29日(土) 朝日新聞より
歴史の町、忍城と足袋
▼ニュー増田 会津工場 |
所在地 | 福島県会津若松市八日町 1-4 |
電話番号 | (0242)25-0937 |
埼玉新聞に弊社の広告掲載 |
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2014年6月6日発行の埼玉新聞に弊社の広告を掲載されました。 |
トピックスだより |
※画像をクリックで拡大画像が表示されます。 演奏者総勢130名の盛大なパレードでした。 感謝のおたよりをいただきました。 ※画像をクリックで拡大画像が表示されます。 |
お便りだより |
この度は大変お世話になりました。本日商品を受け取りました。 |
雑誌掲載情報 |
2011年2月号の現代画報にニュー増田が紹介されました。 {現代画報}記者、カメラマン、タレントの渡辺めぐみさんが[有]ニュ−増田の取材に訪れ、弊社のこれまでの経緯、他店にはない強みや、これからの 国際通信社グループ 株式会社 現代画報社 渡辺めぐみさんのプロフィール 1964年1月24日神奈川県横須賀市生まれ。1982年4月1日、ファーストシングル『ときめきTouch Me』で芸能界デビュー。 |
東日本大震災を忘れない為にこの歌を歌い続ける |
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忘れないために歌い続ける(赤は「復興」、黒は「服喪」) 「SCK GIRLS」の稽古場は、仮設商店街の一角にある。大津波に負けなかった薬局を改造した建物で、ふだんは遊び場などに使われるが、月曜の夜は、彼女たちの稽古場になる。 この仮設商店街は、NPO「気仙沼復興商店街」が運営する「南町紫市場」。160ほどの店があったけれど、東日本大震災で、ほぼすべてが流された。だが、店主らの商人魂で、震災の年のクリスマスイブ、仮設商店街としてオープンした。いま店の数は54を数える。震災観光ツアーで商店街を訪れる人が多く、夜の飲食店も繁盛している。イベントには、SCKの出演は欠かせない。 だがプレハブづくりの仮設商店街は、いずれ本格的につくり直さなくてはならない。5NPOの理事長で「あさひ鮨」の社長、村上力男(72)はいう。「未来が見通せないわたしたちにとって、彼女たちは、希望の光です」 今月7日、気仙沼の中央公民館で、SCKの2周年感謝祭があった。全国から集まった200人ほどで盛り上がった。そこに、愛知県豊田市から来た前田祐佳(30)の姿もあった。 母がいとなむアパレルの会社ではたらく前田は、ボランティアとして、何度も気仙沼に入った。昨夏、あの稽古場で、メンバーの練習を見ていた。全身がうつる壁の鏡を見ながら、踊り、歌う。できないところは教えあう。くりかえし、くりかえし、できるまで。そんな姿に、前田は涙ぐんだ。〈豊田に来てもらおう〉10人を超すメンバーが来て3泊4日すれば、宿泊代や交通費など、200万円はかかる。前田は、地域活性化をめざす女性グループ「SWT+」のメンバーと、地元企業を回った。 冷ややかな人もいた。「なぜアイドル?」「仮設住宅の子どもならわかるけどね」前田は、あきらめなかった。「仮設に住む子もいます」「経験しなくていいことを経験したのに、がんばってるんです」 ことし10月、希望するSCKのメンバー14人を豊日に招いた。小中学校で交流し、ステージに立つメンバーたちを見て、前田は、また泣いた。震災の風化、がいわれる。今月7日の気仙沼での2周年イベントで、リーダーの高橋里瀬(19)はいつものフレーズを口にした。「震災を忘れないため、この歌を歌いつづけます」 「この地球に生まれ変わりとかあるのなら いつかは会えるかな どんな形でも(「ReGenerasion」から)」 最後に、彼女たちは、赤と黒のオリジナル衣装を初披露した。スーパーから提供してもらっていた衣装からの卒業だ。等身大の「あまちゃん」の物語は、つづく、これからも。 弊社衣装(商品No.【BLA-001】)提供 (2013年12月21日 朝日新聞より) |
出場校を応援します (有)ニュー増田 |
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全日本吹奏楽連盟理事長になった 丸谷明夫さん(67) 「日本最大の部活動」といわれる吹奏楽。中学・高校を中心に約1万4千団体、50万人が加盟する組織のトップに5月、選ばれた。 大阪府立淀川工科高校名誉教諭の「丸ちゃん」といえば、吹奏楽界の超有名人。全日本吹奏楽コンクールに特別演奏を含め34回出場を果たし、25回金賞受賞。淀工の演奏会は、満員御礼の連続だ。 子どもが好き、音楽が好き、学校という空間が好き。「あかん」「何考えてんのや」。練習場ではときに厳しい声も飛ぶが、生徒たちは「先生はおもしろい」「温かい」。こんな師弟関係が、他に類をみない伸びやかな音を生む。 中学でトロンボーンと出会い、高校時代から指揮を始めた。1964年、淀工の前身である淀川工業高校に助手として赴任、吹奏楽部の顧問に。大学に通い教員免許を取得しつつ、当初は部員7人だった部を名門に育てた。OBは2千人を超える。活動の場は校内にとどまらず、プロ楽団のタクトを振ることも多い。2006年には大阪音楽大学特任教授に就任。連盟でも全日本の副理事長を務めるなど、要職についてきた。 本音は「できるだけ生徒と一緒にいたい」。だが、理事会の場で満場一致で選任され、理事長職を引き受けた。「吹奏楽の裾野は広がった。次は音楽の質をさらに高めたい。音楽のジャンルの一つとして確立したい」と意気込む。 (2013年6月18日 朝日新聞より) |
いくつもの日々を越えて辿り着いた |
【石巻・渡波小 運動会の鼓笛隊 旋律に思いを込めて】 子どもたちの歓声が仮設校舎を包み込んだ。宮城県石巻市立渡波小学校で3日に開かれた運動会。 応援合戦で幕を開け、徒競争、玉入れ、見守る親も前のめりになる。メーンイベントは鼓笛隊の演奏だ。旋律には、東日本大震災からの道のりが重ねられていた。 青や赤の真新しいユニホームを着た6年生58人が、楽器を手に行進する。真っ赤な顔で頬を膨らませてトランペットを吹く男の子、背筋を伸ばし得意げにキーボードを弾く女の子。 奏でるのは、人気デュオ「ゆず」の「栄光の架橋」だ。バラード調の力強いリズムに誘われるように、自然と手拍子がわいた。 6年生全員が参加する鼓笛隊は、ほぼ半世紀前から続く伝統行事。代々受け継がれてきた楽器やユニホームは津波で流された。支援を受け、昨秋の運動会までに楽器はそろったが、ユニホームは間に合わず、当時の6年生は体育着姿で校歌を演奏した。 「栄光の架橋」は、今の6年生が選曲した。指揮者役の「ドラムメジャー」を担う伊藤咲季さん(12)は、「歌詞が、私たちにぴったりだから」と理由を教えてくれた。歌詞は「誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった」と始まり、「いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある」とのサビに続く。 「最初は友達のことが心配で眠れなかったり、亡くなった知り合いが夢に出てきたり……。もちろん、もう大丈夫ですけど」。もう1人の指揮者、菅野光華さん(12)はそう言ってはにかんだ。 渡波小は津波で児童7人を亡くした。浸水した本来の校舎から5キロほど離れた仮設校舎に移って9ヶ月。はじめは慣れない通学バスに酔い、登校するなり保健室に駆け込む子もいた。 今は、そうした姿は見かけない。プレハブの教室から甲高い笑い声が響く。「不便、ないよね。」「前の校舎と違って、トイレはきれいで洋式もあるし」。運動会前の練習の合間、そんな会話が聞こえてきた。 ただ、松浦達夫校長(56)は、「みんな、様々な感情を胸の奥に押しとどめているはず」と案じる。「ふと津波の写真を目にして涙が止まらなくなる瞬間が、私にだってあるんだから」 この春、震災後初めて担任教諭が全校児童の家庭訪問をした。激変した暮らし向きを把握するためだ。仮設校舎から車で30分も離れた仮設住宅に住む子がいる。自宅が無事でも、近所には骨組みだけ残る建物が放置されていたり、いまだに親の仕事が見つからない子がいたり。市内の高台や県外に引っ越して転校を強いられた子も多く、児童数は震災前の453人から257人に減った。 運動会は、散り散りになった仲間との再会の場にもなった。「遊びに来たよ」と先生にあいさつする子、「久しぶりだね」と友達と写真に納まる子。「ばらばらになったみんなの分も」と指揮棒を打ち振った菅野さんは、ぽつりと言った。 「モノは新しいのと代えられるけど、遠くに行った友達は、そうはいかない。だから、会えるとうれしいし、次いつ会えるのかなあって思っちゃうんです。」 ちょっぴり、切ない運動会でもあった。 (2012年 朝日新聞より) |
全国大会 節目の60回 |
日本の吹奏楽とともに歩み、今年60回を迎える全日本吹奏楽コンクール。そのあらましは―。 あゆみ 1939年、全日本吹奏楽連盟(当時は大日本吹奏楽連盟)が発足。40年、 同連盟と朝日新聞社が主催し、第1回大会を大阪朝日会館(大阪市)で開いた。戦中戦後の混乱で一時中断したが、56年に再開、今に至る。 現況 全日本吹奏楽連盟の加盟団体は、約1万4千。2011年度のコンクール参加団体は1万511。うち中学校が6,629、高校が3,156団体に上る。県・支部大会を経て全国大会に出場できるのは中学、高校とも29団体。県・支部大会を経て全国大会に出場できるのは中学、高校とも29団体。中高合わせると規模、倍率とも夏の高校野球を上回る。 演奏の規定 オーケストラと違って弦楽器なし、管・打楽器が主体。ただしコントラバス、ピアノ、チェレスタ、ハープは使用可。演奏は課題曲、自由曲を合わせて12分以内。 審査と賞 全国大会では原則として9人の審査員が審査。金、銀、銅いずれかの賞が与えられる。3年続けて全国大会に出場した団体は、「三出制度」という連盟内の申し合わせにより、翌年は出場できない。 「吹奏楽の甲子園」 中学、高校の部の全国大会は1972年から主に普門館(東京都杉並区)で開かれてきた。今年5月、同館の耐震強度が足りないことが分かり、第60回大会は名古屋国際会議場「名古屋市熱田区)で10月31日、11月1日に開催されることになった。 日本の吹奏楽は、学校や地域で多くの人に支えられ、発展してきました。全日本吹奏楽コンクール参加団体の演奏力の向上は、目を見張るものがあり、まことに喜ばしいことです。 ただ、コンクールという場に結果を求めるだけの風潮は、戒めなければなりません。アマチュアの原点に立ち返り、音楽を愛する者同士がすてきな演奏を通じて、豊かな吹奏楽文化を築こうでではありませんか。 こうした志が、次世代の指導者に引き継がれていけば、少子化が進む社会の中でも、吹奏楽は輝き続けることでしょう。 (平成24年7月27日 朝日新聞より) |